created: 1997.02.10/last modified: 1999.05.26, by Rj
それは「カストロール」という名のお菓子だった。甘く香ばしい、独特の匂いを持った不思議なお菓子だった。非常な美味であったが手頃な価格で、人類史上最高の銘菓とまで謳われた。やがて、「カストロールに非ずんばお菓子に非ず」などと冗談を言って笑う人も少なからず現れるようになった。
そんなカストロールにも、一つだけ重大な欠点があった。もしかしたらそれは厳密には欠点と呼ぶべきではないのかも知れないのだが、とにかく一つの大きな問題を抱えていた。
それは、
「やめられないとまらない」
という習慣性/中毒性に関するものではないし、
「電話は二番」
という判断を食べ手に強迫して経済を滞らせるという危険なものでもない。かと言って
「おいしさの秘密はね、教えてあげないよ。」
という隠匿性が社会に大混乱を巻き起こしたわけではないし、
「お菓子のホームラン王です。」
などと傲慢な態度で他のお菓子に差を付けようというのでもない。
では何か。
「それを食した者はすべからく『カストロール』になってしまう」
というものだったのだ。勿論、これは人間が(或いは猫や犬など人間以外の動物に関してもその事情は同様であるのだが)お菓子に化けてしまう、という馬鹿げた物語ではない。この『カストロール』というのは、お菓子そのもののことではなく、それを食べた人間(或いは猫など)に生じるある奇妙な「傾向」のことを指す特殊な用語である。
そしてその奇妙な「傾向」とは・・・
当時、タカシはごく平凡な日本人の大学生だった。平凡、というのはちょっと適切ではないかもしれない。彼にはちょっと変わったところが無いとは言えなかったから。例えば、当時の日本では多数派ではない「長髪の男性」だった、或いは、その支持層が多数派とは言えないある種の音楽の愛好者だった、というような点だ。しかし、そういったごく些細な点を除けば、とにかく彼は普通の人間だった、ということには彼を知る皆が賛同するであろう。
「カストロール」が最初に発売されたのは、198X年、日本の当時の首都東京でのことだった。後になって全世界で驚異的な販売実績を上げたカストロールだが、初めて世に出た時にはその規模はほんの小さなものだった。それは初め「コンビニ」と呼ばれる小規模な終日営業の雑貨店の一角に、地味な様子で姿を現した。その包装が特に人目を引く派手さを持っていたわけではなかったし、大々的にTVなどのマスメディアで宣伝が為されたわけでもなかったので、店に来た注意深い一部の客が「なんじゃこれ?」と目を止める程度だったのだろう。発売開始からそれが日本中にはびこるまでにはかなりの時間が掛かった。(それに比して、日本を出たカストロールが全世界を制覇するまでに要した時間の何と短かったことよ。)
タカシは198X年のある夜、とあるコンビニで初めてそれを目にした。勿論彼はその時その「カストロール」なるお菓子がどんなものか知らなかった。が、好奇心の強い彼が、1個ひゃくえんという、当時の貨幣価値を考えてもかなり安価なその見慣れぬお菓子を買ってみようと思ったのも無理はない。彼はその1つを手に取り、週刊誌やウーロン茶のボトルの入ったかごに入れ、レジで代金を払って店を出た。
部屋に戻ると彼は早速買ってきたウーロン茶のボトルを開けて愛用のカップに注ぎ、初めて目にした見慣れぬお菓子「カストロール」とやらを手にした。簡素な箱を開け、中の高分子化合物で出来ていると思われる透明な袋を力任せにぐしゃっと引き裂くと、ほわあ、っと独特の香りが流れ出た。
お。いい匂いじゃん。
彼はそう感じて早速それにかぶりついた。
ぱく。
その瞬間、何とも言えぬ心地よい風味と柔和な舌触りが彼をちょっと驚かせた。先刻までタカシのベッドで心地好さそうに眠っていたねこが目を覚まし、タカシに寄ってきてせがんだ。
にゃあ。(おれにもくれ。)
おう、喰ってみ。んまいぞ。ほれ。
かぷ。
ぅにゃぁ。(んまい。)
ねこもそれが気に入ったようだった。目を細めてむにゃむにゃ喰っている。
へー。これでひゃくえんか。いいな。また買おう。な。
にー。(うん。)
彼とねこはぱくぱくと残った部分を平らげてしまった。
んー、んまい。まんぞく。。。
ごろごろ。。。(まんぞく。。。)
勿論それが彼とねこにあのような異様な変化をもたらすとは露知らず。。。
そして驚くべきことに、この時のこの彼こそが全世界で初めてそのお菓子を食べた生物だったのだ。製品の開発者は、その人体に与える影響を恐れ、完成した製品には口を付けぬまま出荷してしまったのである。勿論開発途上では彼らは幾度もその「未完成カストロール」を口にしている。だが、味覚上は殆ど変化を与えないと思われる「最後の要素」を添加することによって完成した「カストロール」は、誰の口にも入らぬままコンビニの店頭に並んでいた。このことは、カストロールの直接の開発者であるA氏とB氏2人だけが知る事実であった。そして、出荷されたそれをコンビニ店頭で見つけ、最初に買って食べたのは、つまり全宇宙で初めてこのお菓子を食べたのはタカシその人であり、二番目の犠牲者は彼の同居者のねこであったというわけだ。
ん???(←タカシ)
にゃ???(←ねこ)
198X年、東京のコンビニで初めてその姿を露にしたカストロールは、その後しばらくは地味な形で勢力を拡げていった。初期の主な感染経路は、「食べた人が知人に薦める」という、所謂「口コミ」が中心であった。薦められた方は、それがコンビニという比較的「どこにでもある」種類の店舗で入手可能なものであるということと、その価格が1個ひゃくえんという低いものであるということが災いして、案外すんなりとその薦めに乗ってしまうことが多かったようだ。そんな訳で、当時のマス・コミュニケーションの発達を考えると非常に原始的で小規模な感染経路であったにも拘わらず、カストロールは確実に着実に勢力を拡げて行った。
そのうちに「突然何かが大流行する傾向がある」という当時の日本の風潮も手伝って、まず初めに情報に敏感な一部のマス・メディアがまだ認知度の低かった「カストロール」を隠れた銘菓として取り上げ、やがて必然的にどのマスコミも競って大々的に扱うようになり、間も無く日本中にガソリンをばらまいて火を付けたかの如くそれは全土に広まった。病院や監獄にも浸透し、離乳期の赤子ですらそれを口にする機会を得ていた。勿論それにはカストロールのお菓子としての美味性が重要な役割を演じていたし、権威のある栄養学の博士や医師たちがこぞってその栄養学的優秀性を賞賛したこともカストロールにとっては追い風になっていた。
やがて日本のある巨大な商社がこのお菓子の潜在能力に目を付け、海外への輸出を敢行すべく製造者と接触を取った。製造者側としても断る理由はなく、カストロールはあっさりと日本国外への遠征手段を得ることとなった。北米や欧州は勿論のこと、当時資本主義経済にとっては未開拓の市場と言えた中国(当時の大陸政府の領土)や南米諸国、アフリカ大陸、インドなど、世界中への輸出が次々に行われていった。安価とはいえ、為替レートの関係で一部の諸国民にとってそれは日本人が感じる程に手頃な価格ではなかったのだが、それでも各国でそれは銘菓として定着していった。アジアの幾つかの国ではその模造品が幾つも出されたが、「最後の要素」を欠くそれらは必然的に現れて間も無く消える運命にあった。つまり本物程には売れなかった。模造品は根本的なところで本家には及ぶべくもなかったからだ。(これとは別に、やがて本家である日本の製菓会社と提携した各国の製菓会社等による現地生産が行われるようになった。それについては後に再び触れる。)
さて、ここらで『カストロール』になってしまうということ、つまり、食べた人間(或いはその他の動物)に生じる奇妙な「傾向」について述べておこうと思う。まず、それは個体の外見や言動上の変化に関するものではない。次に、それはその個体の属する種の保存に影響するものではない。そして最後に・・・これ以上のことは殆ど何も知られていない、ということだけが知られている。
それでは何によって『カストロール』になってしまったことが判明するのか、如何なる変化も現れないとしたら、何を以て奇妙な「傾向」と称しうるのか、という疑問が出てくるだろう。それは尤もだ。だが、外見や言動上の変化は無く、種の保存に影響しない(であろう・・・これはつまり、カストロール蔓延以後に、人類をはじめ如何なる生物種にもカストロールによると考えられる個体総数の増減傾向の有意な変化が見出せない、という意味である。)ということは、少し注意深く考えてみれば理解出来るはずだが、「如何なる変化も存在しない」ということと同じではない。そこには確かに何らかの変化が生じているのだ。ただ、それが何に関するどのような変化なのか、人は他人にうまく伝えることが出来ないだけである。
この、具体的に伝達し得ない、だが確実で明白な変化を表す言葉として、
『カストロール』になってしまう(become "Kastroll")
という表現が米国のある気難しい心理学者によって初め英語で生み出された。そして間を置かず各国語に訳され、定着した。それ以前には、と言っても米国では日本に次いでそれが蔓延し、かなり早い時期にこの言葉が生まれているので、それ以前という場合に問題になりうるのは原産国である日本だけなのだが、
「お前もなった?」「ああ。なった。うちのいぬもなってたぞ。」
「やっぱアレかな?」「うん。ソレだろ。」
「ねぇねぇ、あの人、まだなのかなぁ?」「ふふふ。そーね、まだみたい。」
「何か最近殆ど(まだの人が)居ないよなー。」「俺昨日一人見たぞ。」
というような曖昧な表現でごまかされていたようだ。
勿論極めて厳密には、言動に如何なる変化も無いとは言えない。上に挙げた会話の例もそうだが、
「昨日初めてカストロール食べたよ。」/「うにぃぃ。(〃)」
というような発言は、実際に食べる前には彼や彼女にとっての真実として語られることは無かったはずだし、それに止まらず
「あっ、やっぱ俺も『カストロール』になっちった。」/「にーみゅー。(〃)」
という発言は大抵いつでも「食べたことによる変化の自覚」を伴ったものであると思われる。つまり「『カストロール』になってしまう」というのは、殆ど誰にとっても明確に自覚しうることであったようだ。更に、誰かが他人を見て
「あ、あいつまだ『カストロール』になってないな。」/「ぬみゃ。(〃)」
と思うのは非常に自然なことだったので、その変化というものは他の個体によっても容易に認識され得べきものであると考えられる。
だが、それが何に関するどのような変化なのか、誰にも分からなかった。その変化は、『カストロール』になってしまった/まだなっていない、という状態の差異による個体間の疎外感も親近感も、その他の如何なる特異な感覚をも生まなかった。
カストロールの製造者は、それほど大きくない・・・というよりも、かなり小さな日本の製菓会社だった。初めは出荷量も少なく、その会社の工場で作るだけで充分間に合った。だが、日本でブームに火がつき、生産が追いつかなくなると、本家は幾つかの大手製菓会社と提携してカストロールの増産を図った。やがて海外に輸出されるようになり、各国でもある程度確実な販売量が確保されるようになってくると、現地の製菓会社の協力を得て現地で大部分を生産する体制が出来ていった。製造法自体は比較的簡素なものであったから、こうした「委託生産」による製品も、本家の製品とほぼ同等の出来を保っていた。ただ、台湾や香港の「海賊品」メーカーが得られなかった「最後の要素」だけは、どの工場でも不相変本家からの供給だけに頼っていた。
日本で爆発的人気を得たのみならず海外にも順調に進出していくカストロールを見て、その順調すぎる拡散に疑問を抱く者も居た。が、如何に「横並び」意識の強い日本人とはいえ、「俺は喰わぬ。」と手を出さない者も幾らかは存在したし、世界中に浸透した、と言っても、あくまでそれは「製品がその国である程度以上の販売量を確保した」というだけであって、それを口にしない者が全ての国に於いて寡少であったということではない。つまりその拡散は「無条件に解禁された安価なコケイン或いはプロザック的薬品」を想像するときに感じるような危険性を感じさせるものではなかったということだ。そんな事情も手伝ってか、栄養学的にも優秀で安価かつ美味なお菓子であったカストロールは、それ程強烈な感情的反発に出会うことはなかった。何と言ってもそれは単なるお菓子なのだ。
「やめられないとまらない」
という習慣性・中毒性に関しては「かっぱえびせん」に負けていたし、
「電話は二番」
という判断を食べ手に強迫して経済を滞らせるという点では「文明堂のカステラ」に及ばなかった。更に
「おいしさの秘密はね、教えてあげないよ。」
という隠匿性で社会に大混乱を巻き起こす程に驚異的な美味を誇ったわけではないし、
「お菓子のホームラン王です。」
などと傲慢な態度で他のお菓子に差を付けるにはホームランの数が足りなかった。安価で容易に入手出来たそれは、どちらかというと「イチロー(1990年代に日本のプロ野球で活躍した、「安打製造器」的打者。)」的だったのだ。嫌味がなかった。
ところで、「最後の要素」とは一体何だったのだろう。言う迄もなく、世界各国でさまざまな研究者の手によりその分析が行われた。あらゆる方法でその解析がなされた。その結果判明したのは、大体以下のようなことであった。
などなど。
ということで、初めは世界各国の多くの製菓・製薬会社や種々の研究所で同等の「最後の要素」を作るべく幾らかの労力が払われたのだが、どんなに「そっくり」なものが出来たと思っても、それを製品に「最後の要素」の代わりに混入すると、製品の売れ行きは地味にだが有意に落ちていってしまうのだった。加うるに、本家から供給されるオリジナルの「最後の要素」は非常に安価であったので、どの国にもそれと同等なものを開発するために莫大な費用を投じようという変わり者は現れなくなっていった。一部の化学者は自身の誇りの為にその仕事を続けていた、という話もあったが、誰かが大きな成果を得たというニュースは流れてこなかった。そしてもう一つ、少々奇妙なことがあった。他のお菓子に「最後の要素」を混入して売り上げを伸ばそうという試みが幾つか為されたのだが、それらが「カストロール」程に売れるということは無かった。混入前と較べて、売り上げの変化は特に見出されなかった。その理由は誰にも分からなかったのだが、事実そうであったということだ。
こうして、一つの謎「最後の要素」を残しつつも、それを食べた人間にも動物にも或いは食べていない人間にも動物にも大きな悪影響を与えることもなく、カストロールは平和な形で世界に定着したのだった。
一部の心理学者や精神医学者、文学者や哲学者、それにその他の物好きな人達は、カストロールのもたらす変化について形而上学的探求をしていた。また、生物学者や化学者、物理学者や様々な医学者の一部は、カストロールのもたらす変化について形而下学的探求をしていた。その変化「『カストロール』になってしまうこと」は、実際上如何なる問題をも生んでいないように見えたし、それ故彼らの探求はそれ程逼迫した状況下に行われたものではなく、言ってしまえば純粋なる好奇心の為の探求であった。
それが理由かどうかは明らかではないが、いずれにせよ形而上学的な人達の得た結論なり見解は、多くの人にとって
「『カストロール』になってしまう」
という表現の発明以上の意味を持ち得なかった。いろいろな人がいろいろなことを言ったが、結局のところそれらは利も害も確証も信憑性も無い単なる仮説の域を出なかったし、誰かがそれについて何かを言ったところでそれは
「『カストロール』になってしまう」
という表現の不器用な言い換えでしかないように思われた。また、形而下学的な人達の得た結論なり見解は、
「有意な変化は見出せない」
という退屈なものでしかなかった。
確かにそこには大きな謎が存在していた。が、その謎は実際上人々に何らかの不利益をもたらすことは無かったのだ。例えばその謎について考えているうちに精神の破綻を来す人が少なくなければ、それは大きな問題たりえたかも知れない。が、特にそういった状況も生じていなかった。至って平和であったと言える。
このように198X年から1990年代初頭に掛けて、カストロールは全世界に根を下ろしてしまった。本家の製菓会社はやがてお菓子そのものの生産を止め、「最後の要素」の供給だけで経営を成り立たせるようになった。とは言っても、その小さな会社は「可能な限りの利潤を得る」という気合いの入った種類の会社ではなかった。「薄利多売、人々に美味しいお菓子を提供しよう」というモットーはその後も守られ続け、その為に社員達はそれ程莫大な資産を得ることはなかったし、それに対して特に大きな不満を感ずることもなかったようである。彼らは順調にカストロールが蔓延するにしたがって、自分たちの労働時間を減じて行くだけであった。それでも彼らはまあまあ優雅な生活を送る為の金銭を得られていたので、経済的な事に関して悩まずともよかったというわけだ。
そんな風に人類が彼らの人生の幸せをささやかに増やす一つの品を得てから10年程経ったある日のことだった。一つのニュースが流れた。
○×製菓、「カストロール」の為の「最後の要素」の出荷を停止
それは地味なニュースだったが、既に多くのファンを得ていたカストロールが今後は製造不可能になるということで、間も無く全世界に伝わった。どの国でも、多くの人々が彼の銘菓の消滅を嘆いた。非常に残念なことよのう、と。だが、それはただのお菓子でしかなかったし、既に述べたように中毒性を持つものでもなかったため、それ以上の大きな混乱や悲哀は生まなかった。皆がその消滅を嘆きはしたが、その為に悲観して自殺したり、大規模な追悼集会のような催しが行われることもなかった。各人、或いは各猫などが、密やかに嘆いただけであった。
ちぇ。(←タカシ)
にゅ。(←ねこ)
そういうちょっとした、一時的な嘆きはあったが、その後も世界は大体に於いてそれまでと同様に流れ、人々はそれまでと同様に動いていった。カストロールの消滅による大きな変化は見出せなかった。やがて人々はカストロールというお菓子の存在を「古き良き思い出」として脳裏に止めるだけになっていった。昔そんなお菓子もあったのう、あれはうまかったのう、という具合に。その後に生まれた若い世代は、そういう昔話を聞くと羨ましがったりもした。いいなぁ、俺もあと10年早く生まれてきてたらなぁ、などと。
そして、カストロールが消滅してから25年ほど経った頃、それは始まった。
初めに東京、それから日本全土、次いで米国、欧州、そしてやがて全世界へとそれは拡がった。日本で最初にその事態が認識されるようになった段階では、それが「カストロール」という四半世紀も前に消滅したお菓子と関連を持つと気付いた者は居なかった。が、それが米国で確認されるようになって間も無く、人類は一つの見解を得た。その異常な規模と拡散の形態などの調査によって、それがカストロールによるものであるという指摘をとある米国の比較的陽気な動物学者が為したのだ。そして彼女はそれをこう名付けた:
「『カストロール』症候群("Kastroll" syndrome)」
実際、その症状は、カストロール消滅後に誕生した個体やかつてカストロールを口にしなかった者には決して確認されなかったし、一度でもカストロールを口にした者には、ちょっとした時期の差こそあれ例外なく確認された。それは、他の如何なる病原体や薬品等の影響以上に完全に発現したと言っていいだろう。人類史上未曾有の現象であった。誰もが、「それはカストロールを食したことによって引き起こされた」と考えた。あまりにも説得力のある説だったので、「悪魔が憑いたのだ」、或いは「ヘンな毒キノコでも食べたんじゃない?」などと言い出す人は殆ど現れなかった。或いは現れても、その説は多数に支持されることなく消えていった。
学者達はこぞってその事態解明・原因究明に取りかかった。誰もが要点であると考えた「最後の要素」に関する過去の文献はひとまとめにされて各国に配布され、誰でも自由に閲覧出来る状態が作られた。研究者間の情報交換も盛んに行われた。また、独自に或いはグループを作って、形而上学的観点からその謎を探求する者も少なくなかった。だが、30年程前の「最後の要素」に関する先人達の探求と同じく、それらの努力は完全な徒労に終わった。人類はそれに関して如何なる理解をも得なかった。個体に起こった変化に対して、それが『カストロール』症候群である、という認識以上の解釈、つまり「カストロール」の含んでいた何がどういう影響をどんな形で人体に及ぼしてそのような事態が発生することとなったのかについての理解、は得られなかった。
その症候群とは一体どんなものであったのだろうか・・・
さて、ここでカストロールの直接の開発者であるA氏とB氏に話を移そう。彼らは自分達が完成品を口にすることなくそれを出荷し、その後、約10年間は社に留まってそのまま仕事を続けた。といっても、先に少し述べたように、その会社はのんびりした所だったし、そのうち「最後の要素」の供給以外の業務を停止してしまったから、彼らも非常に優雅な会社員生活を送っているだけだった。彼らは「カストロール」が予想外の成功を収めたことに非常な満足を感じ、それ以上のものを求めようという状態には成り得なかった。金銭的にも困窮することが無かったからでもあろう。しばらくは彼らにとって平和な日々が続いた。
勿論、「最後の要素」の秘密の解明が盛んに行われていた時期には、世界各国から様々な接触要求があった。だが、彼らはその秘密を完全に彼らの手の中に管理していたし、彼らの身柄についても充分な注意を払っていたし、安価に大量に無造作に「最後の要素」そのものを流出させていたこともあってか、そのことで彼らの身に危険が及ぶような事態は一度も発生しなかった。地球の裏側の偏屈な錬金術師に秘かに恨まれることはあったのかも知れないが、幸いにも直接的に彼らがそういった悪意による損害を被ったことは無かった。そしてやがて、彼ら自身には裁量の無い事由によって、「最後の要素」の出荷をやむなく停止した。直後に退社し、その後の行方は公には知られていなかった。その後しばらくの間、彼らの消息を気にする者は殆ど居なかったし、彼らは製菓会社の社員であった時代から「カストロールの開発者」としての姿を出来る限り衆目に曝さぬよう気を配っていたせいもあって、たとえ彼らが街を歩いていてもそれが彼の「最後の要素」の鍵を握る人物であると気付く者は皆無に等しかった。彼らはその後の人生をどこかで密やかに送っていたのだろう。
『カストロール』症候群の存在が発覚すると、必然の成り行きとして再び彼らに注目が集まった。彼らこそがその症候群の謎解明の鍵を握る人物であると思われた。しかし、開発当時からの彼らの慎重さに加えてその後の長い空白期間もあり、人々は彼らの消息を掴むことは出来ずにいた。世間の人々には、その時に彼らがこの世に存在していたかどうかすらわからなかったのだ。仮に彼らがカストロールを開発した時点で25歳程度の若者だったとすれば、症候群発覚時には60歳程度であり、当時の日本での平均的な寿命を考えればまだまだ生き長らえている可能性が小さくないとは言えたが、人の身には何が起こるか分からない故、彼らが無事にその生涯を続けているのかどうかは全くの不確定事項であった。そんな訳で、世間は初め彼らの消息を掴もうと躍起になりはしたが、一向に情報が得られぬ状態が続くにつれてやがて諦めの雰囲気に広く包まれていった。それに、彼らを吊し上げたところで、彼ら自身すら何の鍵をも握っていない可能性もあるのだ。かつて世界中の科学者が「最後の要素」について解き明かそうと努力を重ねたにも拘わらず何も理解し得なかった謎を、一介の製菓会社社員が把握していなくとも不思議とは言えまい。
人々は、またしても謎は謎のままに留まるのだろうか、と感じつつあった。
その謎は暫く措くも、「『カストロール』症候群」それ自体に関する情報が皆無であるというわけではない。状態の具体的な描写は可能である。ここでそれをしておこう。
既に述べたように、それがある個人に於いて発現するかどうかは、明白に「カストロール」を食したかどうか、に依っている。それほど正確な数字ではないが、当時の人口の約四割弱がその経歴を有していた。大変な数であることには間違いない。当然のことだが、25歳未満の若年層には殆ど確認されなかった。カストロールは、例えば不活性気体を充填した容器に密閉し極低温で何年も保存しておき、やがて生まれ来る子孫に与えよう、と考える人間が多く出る程のものではなかったということだ。
では、それが個人に於いて発現した場合の変化は如何なるものであったのか。端的に言うと、それは
完全なる不眠症(と、通常不眠症に伴うべき身体的/精神的症状の欠落)
である。発症後、その個体が睡眠を取ることは皆無になった。つまり、それまでの世界では殆どの人間が日常的に経験していた、周期的に陥る「身体の随意運動と意識の消失」という状態を、彼らはその後一瞬たりとも体験することがなくなってしまった。幻覚剤など(ある種の毒物・薬品)の過剰摂取や身体的(主に脳神経の)損傷による機能障害、強度の精神障害等によって起こる「意識喪失」「記憶の欠落」のような状態が有り得なかったわけではないのだが、その発生割合はこの症候群とは無関係と思われる。もっと単純に、この症候群によってそれまでの地球人類の大多数にとっては「ごく当たり前」と捉えられていた「睡眠」が失われたのである。完全に。
それは当初、日本で「集団的不眠症」などと呼ばれた。一時的な現象、という見方も少なくなかった。だが、その現象は日本国内に止まらず次第に全世界に拡がり、その拡散形態は、原因をウイルスやある種の有害物質等であると人々に考え難くさせた。全ての人がそういう殆ど有り得ないように思われる可能性について完全に思考を停止してしまった訳ではないが、殆どの人は大体に於いて米国の動物学者が提出した説を支持せざるを得なかった。原因はウイルスなどではなく、カストロールである、と。
月日が経つにつれて、その現象を一時的なものであると考えたがった人々は次第に彼らの失望と恐怖を増大させるようになっていった。発症後、何週間、何カ月、何年経っても、その不眠状態は維持され続けた。実際には、それまで人々が通常の睡眠不足の際に感じていたような直接的弊害(疲労感、意識水準の低下など)は殆ど発生していないように思われたのだが、「眠る」というかつての自分にとってはごく自然であった習慣が失われてしまったということで、皆が漠然とした、しかし小さくない不安を抱えるようになっていった。
そのような漠然とした不安が、全体として社会に大きな影響を及ぼすようになっていったことは想像に難くないであろう。人間社会は、個人としてその不安と一切無縁な者とそうでない者に厳密に二分され、一方の状態に属する個人が他方に属する個人に或いは全体に対して、単純でない感情や考えを抱くことは稀ではなかった。必然的にそういう複雑な意識は様々な問題・事件を生み出す動機となっていった。この集団現象発生以前も、地上は人類にとって必ずしも「楽園」ではなかったが、これ以降、その住み難さの度合いは確実に急上昇していくことになった。それでも数年の間は、まだ状況の急激な変化に対する困惑が世界には満ち溢れていたこともあって、その変化の作用は「不穏な空気の増大」というような曖昧な形で存在しているだけだった。
その後人類社会に・・・或いは地球上で起こった種々の事象に関しては、近代史の教科書を繙いて頂きたい。幾つかの大きな事件に関しては、特にそれを扱った文献も少なくないであろう。我々にとって幸いだったのは、「『カストロール』症候群」が遺伝することの無い、一代限りのものであったように思われる、ということだろうか。尤も、我々の何世代か後になって再び何らかの影響が出ないとは言えないのだが。
最後に私の身分を明かすことを以て跋文に代えさせて頂く。この物語を何故私が書いたのか、ということの一つの説明になるであろう。
B氏とは、私の母方の曾祖父であった。そして私は若い頃、直接彼に話を聞く機会を得たことがあった。また、文中登場する「タカシ」なる人物は、私のある親しい知人の祖父である。この物語を書くに当たって、その知人の話をも参考にさせて頂いた。この場を借りて御礼申し上げたい。
(終)