ぞんび

1997.2.4   2:42 Uhr


 彼女はぞんびだ。つまり意思を持って活動する腐乱死体だ。と言っても、見掛
け上は普通の人間と変わらない。体表面の温度も、生身の人間と同じくらいだ。
だから、彼女がぞんびだと知っているのは、彼女本人と俺だけだろう。

 ある日俺が二子玉川の街を歩いている時、急に彼女の存在に気が付いた。彼女
の側頭部が俺の左頬に当たっていて、俺は左手を彼女の肩に回していた。あれ?
と思ったが、まあいいや、とそのままそういう状況に馴染んでしまった。彼女は
黒い服を着ていて、長くて綺麗なまつげと鮮かに赤い唇が印象的だった。その時
は勿論俺は彼女がぞんびだなんて考えなかったのだが、彼女の突然の出現に俺が
殆ど驚かなかったのは多分彼女が生身の人間ではなかったからなのだろう。

 彼女と俺は、街をてくてく歩くのが好きだ。買い物をしようとか映画を見よう
という積極的な目的を持たずに、ただてくてく歩いているのが楽しい。行く先は
大抵東急線沿線のちょっとした街で、天気の好い休日の昼間、二人でひょいと出
掛けるのが習慣になっている。二子玉川や自由が丘、大井町、渋谷なんかが多い
けど、時にはたまプラーザや青葉台まで足を伸ばすこともある。ときどき喫茶店
に入って休んだりレストランに入って食事をしたりもするが、大体は店に入らず
にただ青い空の下をてくてく歩く。お陰で俺は彼女が現れてから脚が丈夫になっ
たと思う。それまでは不健康な生活をしていて、身体はへろへろに弱っていたん
だけど。

 そういうことだったので、出会って間も無い頃は、俺はよくへばっていた。彼
女はいつでも疲れていないように見えたから、不思議に思って訊いてみた。
「何か運動でもしてんの?そのスタミナ、尋常じゃないぞ。」
「あ、あたし、ぞんびなの。だから疲れないの。」
「えっ!?まぢぃ?!ぞんび??」
「うん、まじなの。」
「ふーん・・・じゃあさ、いつからぞんびなんだ?」
「分かんない。ずっとぞんびなの。」
「ふーん・・・」
 俺は、ぞんびというのはもともと腐った死体だから、身体の表面はでろでろし
ているし内臓の一部なんかが抜け落ちてたりもするものだと思っていた。彼女は
見掛け上は本当に普通の生身の人と変わらなかったから、彼女がぞんびだという
ことを違和感無く受け入れられるようになるまでには少し時間が掛かった。で
も、実際上の違いといえば彼女が疲れるか疲れないかだけだったので、やがてそ
んなのどっちでもいいやと思うようになった。

 ************

 ある日、あまりに天気が好かったので二子の街を歩くのをやめて多摩川の河原
で寝そべっている時、空をぐるぐる飛んでいるとんびを見て俺はふと思った。横
に座っている彼女に訊いてみた。
「とんびの中にもぞんびなやつが居るのかな。」
「え?それ、いつもの『似ているシリーズ』?」
「いや、そうじゃなくてさ。だって見掛け上は普通だけど実はぞんびな人間が居
るんだったら、とんびにもそういうやつが居たっていいじゃん、と思っただ
け。」
「そうねぇ。。。居るかもしれないね。」
「他にぞんびな人に会ったことはある?」
「ううん、ない。」
「それってすぐに分かるもの?見掛けは同じようなのに。」
「うん、分かるの。」
「ふぅん。。。」
 俺は、彼女が突然俺の左横に意識された時のことを思い浮かべていた。確か
に、相手が生身の人間だったら、ああいう出現のされ方には驚かざるを得ないは
ずだよなぁ、と。やっぱりぞんびとそうでない人では違うし、その違いはすぐに
分かるものなのかもしれない。でも、そうすると他の人にも彼女がぞんびだとす
ぐに見破られているはずだが、今のところ街を歩いたりしていて彼女がぞんびだ
と気付いたように見える人に出会ったことはない。不思議なのでまた訊いてみ
た。
「でもさ、他の人はキミがぞんびだって気付いてないように見えるけど、それは
なんでかな。それとも、気付いてるけどそんなことはどうでもいいから反応しな
いだけなのかな。」
「気付いてないはずよ。」
「そうだよな、やっぱ。・・・俺も、言われるまでキミがぞんびだなんて思って
なかったもんな。」
「でしょ?」
「うん。」
 今、俺の視界の真ん中をぐるぐる飛んでいるとんびがぞんびかどうか、も、俺
には分からない。それは結局どっちでもいいことなのだろうけど、彼女には分か
るかなぁと思って訊いてみた。
「じゃあさ、あれ、あのとんびはぞんびかどうか分かる?」
 俺は頭の後ろに組んで枕にしていた腕のうち右側の一本を地面に垂直に立て、
人差し指をまっすぐに伸ばして他の指を畳んだ。
「あ・・・あのとんびはぞんびじゃないわね。」
「ふーん・・・なんですぐ分かんの?」
「だって・・・ぞんびじゃないもん。」
「ふううん。。。」
 俺には分からない。でも彼女には分かるのだろう。

 分からないついでに、前から訊きたかったことを訊いてみた。
「ところでさ、最初にキミが現れたのってこの街だったよな。」
「うん。」
「あれ、『気付いたらキミが横に居た』って感じだったんだけど、ホントはどう
だったの?」
「ホントもそうだったの。」
「ん?突然どっかからテレポートしてきたとか?」
「ううん、『気付かれたらあたしはあなたの横に居た』でいいの。」
「?・・・それだけ?」
「それだけ。」
 彼女は柔らかく微笑んでいた。
「その前はどこに居た?どうやってそこに現れたんだ?」
「どこにも居なかったし、『現れる前』はないのよ。」
「いや、確かに俺の意識の中ではそうだけどさ・・・」
「それが全てでしょ?」
「う・・・?キミは実は俺の意識の中だけに存在していて、他の人にとっては
『居ない』ってこと?俺は自分では気付いてないけど実は妄想の中に生きる分裂
病者?」
「ううん、あなたは普通の人よ。他の人は、ちゃんとあなたが街を歩いている時
に横にあたしを連れているのを見てるから大丈夫。」
「う・・・ん。だよなぁ。店に入って、店員はキミの注文をちゃんとキミから聞
いてるように見えるしなぁ。」
「そう。だから大丈夫よ。」
「でも、そのキミの『大丈夫よ』っていう台詞も、或いは店員の応対も含めて全
部俺の妄想が作り出してるかもしれないぢゃん。。。なんかだんだん怖くなって
きたぞ。」
「それを言ったら誰でもそうなのよ。だって、自分の見聞きしてるものが、そこ
に本当に『存在する』かどうかは、いつでも誰かの意識にとって、ということで
しょ?世の中に誰も居なかったら、何も存在しないのと同じよ。」
「やけに哲学的な事を言うねぇ。まあ、確かにそうだけどさぁ。。。」
「街であなたを見る人のうち、99%くらいの人が『横に女のコを連れてる』と思
えば、あなたは分裂病ということにはならないから大丈夫よ。試しに、すれ違う
人みんなに訊いてみる?」
「あ、いや、そこまでしなくてもいいけどさ・・・」
「ならもう心配しないで。」
「うん・・・」
 結局、彼女がどうやって俺の横に現れたかは分からずじまいだった。気が付く
と、先刻までぐるぐる飛んでいたとんびはいつの間にか視界から消えていた。そ
の代わり先刻までは無かった飛行機雲が右下から左上に伸びているところだっ
た。伸びゆく先端部分がきらっと光っていた。

 そんな風にときどき何かが不思議になってしまうことはあったけれども、彼女
と街を歩くのは楽しいし、彼女と暮らしていて俺は以前より満ち足りた気分でい
られるようになったから、そういう『不思議なこと』についてはあまり悩まない
ようにしている。悩んで解決に近づくならそれもいいけれど、そうでないことに
ついて考えてみるよりは実際に楽しく時間を過ごす方が人生の有益な消費法だろ
うと思う。

 ************

 彼女は自分の口元を俺の首筋に寄せるのが好きだ。歩いている時にも、ときど
きそうする。そうすると、俺のうなじの辺りに彼女の鬢が微かに触れてちょっと
くすぐったいのだが、俺もそういう状態はそんなに嫌いじゃなかった。外ではし
ないが、彼女は俺の首筋にちょっとした痕跡を残すのも好きらしかった。彼女が
ぞんびだと知って間も無い頃は、俺は彼女がそのうち俺の首にかぷっと噛みつい
て、俺もぞんびになってしまうのではないかと少し心配だった。だが、彼女は俺
の首の皮膚を喰いちぎるなんて野蛮なことはしなかったし、仮にそうしたとして
も俺は「疲れない」ぞんびになるだけなので、そのうちそれも気にならなくなっ
た。

 ときどき、友人に
「あ。お前また首に跡付けてやがんな。」
などと言われて
「へへへ。」
とちょっと照れ臭くなるけれど。

 ************

 今、午前2時42分。俺はベッドの上でこれを書いている。左横では、彼女が
その白く滑らかな肌に優しい寝顔を浮かべてすぅすぅ眠っている。明日は天気が
好さそうだから、久しぶりに自由が丘にでも行ってみようか。。。

                         (終)
1997.2.4   4:22 Uhr

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