ツアー後半年以上の期間連載してきたこの日記もついに最終回です。
さあ、いよいよ長崎を旅立つ時が来ました。江口の両親とお別れをしけんぢまんの家の宿泊組と合流し、けんぢまんのお母さんともお別れをし、全員車に乗り込みました。まっすぐ帰ると思いきや僕らがまっ先に向かったのは、やはりあの「のぞみ会館」でした。
そう僕の捨て犬伝説はここから始まったのです。立ち寄らずに帰るわけには行きませんでした。風呂からあがった全員でのぞみ会館の展望台に登り、数日を過ごした諫早を一望しました。めちゃめちゃ天気が良く見事な景色でした。馬鹿猛者達同様僕らを笑顔で諫早が送り出してくれているようでなんか嬉しかったです。
身も心もすっきりした僕らはいよいよ諫早を後に車を走らせました。行きは神戸に寄りましたが帰りは東京まで高速を降りることはなく、ただただハイウェイドライブでした。これって考えてみると凄い話しで、あれだけの距離一つの道路が繋がっているのはやっぱ凄いよね。しかも誰かが一つづつ作ったんだからさ。人間ってちょっと恐いかも。
途中いくつかのパーキングに立ち寄りました。印象深いのは、まず最初に寄った関門海峡のパーキングでした。そこで僕は違うものを食べましたがほとんどの連中が博多ラーメンなるものを食べて、なんか違くないか?という不満そうな顔をしているのに笑えました。あと、行きに寄ったパーキングになぜか寄ってしまうという感じもありました。あーここ寄った後岡山で嵐に巻き込まれたなあとか、ここから旅っぽくなってきたんだよなあとか、パーキングに寄る度に僕は何か食べながらそんな感慨にふけっていました。
渋滞もたいしてなく、車中も思い出話や尻取りなんかしながら、今回の旅でさらに気心の知れ合っった仲間と楽しく過ごし、順調に16時間かけて神奈川県の最初に寄った海老名のパーキングに到着しました。16時間という時間が不思議にえらくあっという間に感じました。
そこでうちらが話したことは、果たして高速料金を払うことができるのか?ということでした。と、いうのもやはり予定より予算オーバーし、貧乏人の集団の僕らは手持ちの金が底をつき始めていたからです。そんな時はやはり大人なグループ「SWAMPS」の僕と師匠。まるで田村正和のように二人でさっとキャッシュカードを内ポケットから取り出し「足りなかったらこれで。」とみんなの不安を一挙解消してあげました。
無事高速を降り、まず僕の家に寄り、荷物を降ろし、けんぢまんと江口はO-chとねこ団の二人、そして優ちゃんを乗せ、彼等を送った後レンタカーを返しに東京に向かい、僕は自分の車を出し、大矢君と師匠とあやちゃんを家まで送ってあげました。最後大矢君と二人になりお互いに「とんでもなく素晴らしい旅だったね。」と言い合い、笑顔でお別れしました。
もう、あの旅から早いもので半年以上の月日が経ちました。今になって振り返っても思い出すだけで心が暖かくなるような出来事がたくさんありました。O-chが帰りの車中「人生観まで変えられてしまうような旅だった。」言っていたように、今回の旅は僕らの人生にとってかなり重要な旅だったのは間違いありません。旅をしながら、りぶさんの両親や馬鹿猛者達、神戸のコニシスを始めとするみなさんに受けた恩や優しい気持ちは僕らの財産というだけでなく、その後の僕らの体の中に息づいています。
たぶん僕らが出来る恩返しで一番喜んでもらえるのは、音楽というもので表現していくことだと思うので、今後も僕らは更に成長し続け、いい音楽をたくさん作っていきたいと思っています。
今回の旅で出会ったみなさん、「本当にありがとうございました。」
そして愛すべき仲間達これからも共に楽しくがんばっていこうぜ。
そして最後にけんぢまんと江口。
お疲れさまでした。今年はいつ行く?
今年の「はっとの野望」新しいシリーズは僕の回りにいる愛すべき仲間達との出会いについて書いて行きたいと思います。その出会いがなければ、今の自分もこれからの自分もないと思うので、感謝や敬意そしてこれからもよろしくということで、こんなコーナーを始めます。題して「はっとは出会い系」。
浜野さんは言わずと知れた湘南No.1若手ギタリストで、我がSWAMPSのメンバーです。三枚製作したCDの一枚目にあたる「愛の劇場」(完売入手不可。音はこのサイトの「作品紹介」で試聴可能)と二枚目の「たっての希望」を聴き比べてもらえばわかると思うのですが、一枚目から二枚目にかけて音楽的なクオリティが飛躍的に伸びています。「たっての希望」に関して言えば、音楽専門雑誌「プレイヤー」のインディーズコーナーで取り上げられ絶賛されたほどです。
その音楽的飛躍の要因は間違いなくSWAMPSへの浜野基永の加入であり、彼は現在もSWAMPSサウンドの核となる人物なのです。SWAMPSだけでなく森田哲朗、大場盛子、高橋あや子、りぶさんなど湘南を中心に活動する様々なアーティストをサポートしています。そんな浜野さんとの出会いはどうだったのでしょうか?
もう7年くらい前の話になると思うのですが、湘南の鎌倉市由比が浜海岸沿いにある「ビーナス」というお店で、端山龍麿(はやまりゅーまろ)氏主催のアコースティックキャンプというイベントが行われていました。そこに僕が初登場した際に対バンの森田哲朗さんのサポートギターで来ていたのが浜野さんでした。
その時の出演者が森田さんの他、龍麿さん、そして藤原一晴君と湘南でブイブイ言わせてる人達ばかりだったので、新参者の僕は正直「ぜってえ負けるもんか」という気持ちしかなかったような思い出があります(笑)。
あの「橋の上に座って」もこの日のライブのために作り、この日が初披露でした。ライブは音楽と歌を心から愛するお客さんが多いイベントだったので、予想を遥かに上回る盛り上がりをみせ終了しました。その時に浜野さんに言われた言葉で今でも覚えているのが「曲がいいねえ」という言葉でした。
僕的な浜野さんの第一印象はやはりミュージシャンぽいなあというものでした。風貌は当時と今と見事なくらい変わらないので、きっと今彼を初めて見る人たちも僕と同じように思うのだろうなと思います。
当時はまさか同じバンドで演奏するようになるとは夢にも思っていませんでしたが、その時から浜野さんの弾くフレーズやかもし出す雰囲気に僕と同じ匂いを感じてはいました。恐らく彼にしても同じだったのかもしれません。
以上が浜野基永との出会いの時の話でした。次回は「佐々木真佐也」です。お楽しみに。
SWAMPSのアットホームキャラ、マリヤの父ことマサヤさん。彼の経歴はちょっと凄くて、あの伝説の音楽番組「いかすバンド天国」に「アンビリーバブルワールド」というバンドで出演し、その週のチャンピオンになり、その時何週か勝ち抜いていた、最近は「涙そうそう」でおなじみの「BEGIN」と対戦し、惜しくも破れ、その後「一つ屋根の下」というドラマの挿入歌を歌っていた「ル・クプル」が売れるちょっと前まで、そのメンバーとカントリーウエスタンのバンドを一緒にやっていたそうです。当然皆さんご存知のように腕前もすごいです。
J-WAVEで「大仏ファンク」が流れた際「くるり」のメンバーや「スガシカオ」氏に目立って誉められていたのがマサヤさんのベースでした。そんなマサヤさんですがその後なぜかアメリカでお寿司屋をやったりしていて、帰国して今日本に落ち着いている状態です。さて、そんなマサヤさんと僕との出会いはどうだったのでしょう。
前回登場した浜野さんと出会う数カ月前、僕は単身アメリカのサンフランシスコという街に歌の修行のため一ヶ月間住みこんで、昼間はホテルの部屋でひたすら作詞、作曲をし、夜は飛び入りOKのバーに歌を歌いにいくということをしていました。アメリカはOPEN MICという慣習があり、音楽を人前で披露したい人のために飛び入り用の環境を用意してくれているお店がたくさんあります。現在藤沢で開催している「藤沢フォークフェスティバル」の飛び入りもそこで僕が学んで来たものを取り入れた形となっています。
だいたい向こうのバーは夜遅くからミュージックタイムとなるので、終了するのはだいたい深夜で、車もない僕は夜中のダウンタウンをギター片手に歩いてホテルまで一時間くらいかけて歩いて帰っていました。時々変な黒人に追い掛けられたりしましたが、今こうして生きているので、まあ何とかなっていたのでしょう。僕は飛び入りの度に自分の作った日本語の歌を歌っていたのですが、これがなぜかバカうけで、すっかりお店の人気者になっていました。そこのバーは「ホテルユタ」というホテルの一階にあるお店でした。
そこでマサヤさんと出会いました。そこで歌っている期間中二人の日本人に出会ったのですが、一人は中央林間の「蔵」を紹介してくれたスケシさん、そしてもう一人がマサヤさんでした。マサヤさんと初めて交わした会話は「Are you Japanese?」「Yes」でした(笑)マサヤさんはその飛び入りでベースは弾いていなくて弾き語りで自分で作った日本語の歌を僕と同じように歌っていました。その時はまさかそんなにベースが弾ける人とは思っていませんでした。
マサヤさんはそのバーで「俺こっちで寿司屋やっているんだけど、明日タダで食わしてやるから遊びおいでよ。」と言ってくれました。僕の性格上行かないわけがないので、翌日よく晴れた日にバスに乗りつつマサヤさんの働くお店に行ってごちそうしてもらいました。しかも一緒に働いていた女性がおみやげにオニギリまでくれました。
たった一ヶ月間行っただけのサンフランシスコで出会ったマサヤさんと今同じバンドで活動しているというのは考えてみると不思議な話で出会いとはいったい何なんだろうかと改めて思います。きっと人は出会うべくして出会うそんな気もするのです。
次回はもちろん「緒方司」です。
「おがちん」こと緒方司。彼は前回登場した佐々木真佐也と大学生の頃から共に活動しており、アンビリーバブルワールドでいか天にも出演、それだけでなく一時期は渋谷系のバンドにも所属しメジャーアーティストとして、今や世界的に有名な「コーネリアス」や伝説のユニット「エルマロ」なんかとも共にライブイベントに出演していたそうです。現在はSWAMPSだけでなく活動20周年をむかえた「OUTBACK」や「ビーズニーズ」というバンドでもその華麗なドラムテクニックを存分に発揮しています。そんなおがちんさんとの出会いはどうだったのでしょうか?
おがちんさんの存在を知ったのは、まず音からでした。アメリカから帰国したまさやさんが僕に連絡をくれ、「今俺こんなバンドやってるんだけど」とまさやさんのバンド「WAGA」のデモテープを家に郵送してくれたのです。そのテープを聞いた時、もちろんすごく全体的にレベルが高かったのですが、圧倒的にドラムの存在感が僕の印象に残りました。たぶんその当時にまさやさんにも「いいドラムですねえ」と感想を述べたような気がします。
その後、高円寺の「稲生座」というライブハウスにその「WAGA」を見に行った時がおがちんさんと初めて会った時だと思います。一人で見に行ったし、ライブ見てすぐ帰ったのでおがちんさんの記憶には恐らくないと思います。やはりライブを見た印象もまさやさんのベースとおがちんさんのドラムが僕の胸に残っていました。
そんなわけで、その後「たっての希望」というアルバムを製作する際、SWAMPSの代表曲「ボロゾーキン」を誰に演奏してもらうかとプロデューサーの浜野さんと相談していた時、思い浮かんだのがまさやさんとおがちんさんでした。その当時僕は、なぜかものすごいデカイ家に住んでいて、しかもその家の裏には何時間借りても千円という大家さんがやっている防音付き集会場があったのでそこにまさやさんとおがちんさんを呼んで録音のための音合わせをしました。
その時浜野さんは都合で来れなくて3人で合わせていたのですが、不思議なことが起こりました。なぜか絶妙に3人の息が合ってるのです。普通バンドの息というのは何度も練習を重ね合ってくるものなのですが、音を出したその瞬間から3人の息はまるで何十年来のバンドのように合ってしまったのです。それどころかその後浜野さんがその3人に加わると、これがさらに何とも気持ちいい共通のグルーブを持ったバンドとなってしまったのです。
これはすごいということになり、同時期にテレビ東京の出演も決まったのでそのバンドで何度も出演しました。そしてたくさんの方々に高い評価を頂きました。そうやっていつのまにかSWAMPSという貴重なバンドは完成し、今に至るのです。
以上のことからもわかるようにSWAMPSというバンドは決して作ろうと思って出来たバンドではなく、実は偶然の産物です。だからこそその存在には大きな意味さえ感じずにはいられないのです。
次回は「大矢修司」。
足掛け3年、前回で32回目を迎え、総出演者数も恐らく300組を超えた湘南のお化けイベント「3F」こと「藤沢フォークフェスティバル」。そのイベントを僕と共に立ち上げ主催、運営しているのが、この人、大矢修司です。
彼は、何と29才の時から路上で歌い始め、その後10年間勤めた塾の先生を退職し、音楽中心の生活に足を踏み入れた勇気ある向こう見ずです。人からも動物からも愛される素朴な人柄で、彼の作る音楽も、そんな人柄が良く反映された、柔らかい空気なような優しい雰囲気を持っています。時代に流されない普遍的な名曲を作ることができる数少ない貴重なシンガーソングライターだと僕は思います。そんな大矢君との出会いはどうだったのでしょうか?
僕や大矢君をよく知っている人でも、もしかしたら二人の出会いは僕が2001年に「365日毎日ライブ」をやっている時だと思っている人が多いかもしれません。でも実は彼との出会いは、その数年前にさかのぼります。
僕の実家が鎌倉ということもあり、僕は藤沢駅からよくバスに乗って帰っていました。そんなある日、バス乗り場の近くのタクシー乗り場の前で一人で歌っている男がいました。そう大矢修司です。彼はその時無料でデモテープを配っていました。大矢修司と最初の会話はそんなわけで「このテープほんと貰っていいの?」だったと思います(笑)。そのテープには大矢修司と書いてありました。
「大矢君といえば。。。。。」
実はその日をまたさかのぼること数年前、僕がまだサラリーマンだった頃毎週日曜にかかさず藤沢駅前でストリートライブをやっていた事があり、実はその時、大矢君と同じ名字の大矢という高校生のストリートミュージシャンがいました。そのガキは嫌な奴で僕が歌ってる近くにわざわざ陣取り大声でライバル心を燃やしながら歌いまくるということをくり返していました。
そんなわけで僕はてっきり今の大矢君をその時はそいつだと思っていて、でも「まだストリート続けてるのかあ、嫌な奴だったけど偉いなあ」と感心していたのです。後から、人違いだったことに気づきましたが。そうです僕と大矢君の出会いは人違いから始まったのでした。
その後365日毎日ライブをやった前年、試験的に藤沢駅で夜歌ってた時に大矢君と再開し、きちんとお互いの存在を確認した覚えがあります。まあ、最初の出合いが人違いであったとしても、RMSを始めとする今僕を取り巻く仲間達や環境は彼との出会いがなければ実現しなかったと思います。いわゆるあの日がRMSのビックバンだったのでしょう。なぜなら、彼からあの日貰ったデモテープのタイトルは「コナゴナ」だったのですから。
次回は「藤田岳弥」です。
たけやこと藤田岳弥。おなじみのチェックのズボンを履きながら、個人的にはもう壊れてると思うオベーションをかき鳴らし、足をバタつかせながら歌うそんな男。甘いマスクと歌声で一見ビジュアル系なのですが、実は気取るということを知らない根っからのお人好しです。彼は歌えるところなら、条件とか状況とか考えず日本全国どこでも行ってしまうので年間信じられない数のライブをやっています。
RMSが広く認知されてきた一つの要因に彼のそんな突出した起動力があります。実は僕が仲間と共に活動していく上でもっとも助けられて頼りにしているのがこのたけやなのです。その分彼には甘えてしまい無茶なお願いをたくさんしてしまうのですが。。。。そんなたけやとの出会いはどうだったのでしょう?
たけやとは今僕の回りにいる仲間のミュージシャンの中で、最も古い付き合いになります。恐らく10年くらいになるのかもしれません。僕は学生時代、合コンとテニスに明け暮れる根っからの爽やかBOYだった頃があり、夏はいつもプールの監視員のバイトをして、まるでコカ・コーラの宣伝のようにキラキラとした青春を送っていました。
学校を卒業後、その監視員の仲間で集まって話していた時に、その一人が「僕バンド組んだんですよ、今度練習見に来てください。」と僕に言いました。僕もその当時SWAMPSではないバンドでたまにライブをやったりしていたので、きっとそんな理由もあり誘われた記憶があります。
その連中は深夜パックで藤沢本町にある「ライトハウススタジオ」で練習していました。バンドは信じられないくらいヘタクソだったのですが、そこで唯一まともにギターを弾いていたのが藤田岳弥でした。帽子をまぶかにかぶり、無口にエレキを弾いている彼を見て僕は「あっ、絶対ヤンキーだ。」と思い恐くて声をかけなかった思い出があります。
当時彼は小田原のスーパーに就職していたんですが、その後そこが会社ごと倒産したため、僕の監視員仲間であり、たけやの高校の同級生である人物がなぜか神主だったので、そこの神社に就職しました。その神社仲間で彼はバンドを組んでいたので、僕もそのライブを見にいったり一緒にライブをしたりSWAMPSの最初の作品に参加してもらってる内に彼と仲良くなりました。
その後音楽中心の生活に踏み出した僕を横目で羨ましいと思っていたのか彼は僕が365日毎日ライブをやっている時いきなり茶髪で藤沢駅で歌ってる僕と大矢修司の前に現れ。「えへへ、はっとさん仕事辞めて来ちゃいました」と言い放ったのでした。
次回は「O-ch」です。お楽しみに。「はっとは出合系」では皆さんのご意見ご感想をお待ちしております。
10-MINUTE TICKER略して「10ミニ」というバンドのボーカル&ギターをやっているのが彼O-chこと「おーち」です。情熱的な楽曲、個性的な歌声はもちろん、僕が個人的に素晴らしいと思うのは、やっぱり彼のギタープレイです。恐らくメジャーも含めた数いるシンガーソングライターの中でも彼のギターの腕前はトップクラスなのではないでしょうか?
表向きな性格は我がままなヤンチャ坊主って感じですが、実は非常にナイーブで優しい心を持っていて例えば誰か意地悪なことを考えている人間が僕らに近付いて来た時、誰よりも先にそういう感情に気づき反応するような敏感さが彼にはあります。
彼の作る楽曲の歌詞にもそういった一面がよく反映されていて、そんな繊細さこそが多くの人に支持されているおーちの本当の魅力なのではないかと僕は思っています。そんなおーちとの出会いと言えば:
今から4年くらい前にSWAMPSはTV東京の深夜音楽番組に出演していたことがありました。それはインディーズアーティストの勝ち抜き番組だったのですがSWAMPSは歌いながら前にバレリーナを踊らせてみたり、髪の毛をおったててタキシードを着てみたり、大仏のお面をバレリーナにかぶせてみたりと思いつく限りの卑怯な手段で勝ち抜いてもいないのに8週間も出演し続けていました。その初出演の収録の時がおーちと10ミニとの出会いでした。
たしかあれは大森のショッピングモールだったと思います。その番組は2週間分の収録で、一回に12、3組が出演するので、そこにはかなりの数のアーティスト達が集まっていました。さすがテレビ、ひと組ひと組ちゃんとサウンドチェックまで行っていました。そんな中そのサウンドチェック時点で気になる演奏をしていた連中がいました。そう10ミニです。
すごく遠くから見ていて全体的な演奏がどんなものかその時はわからなかったのですが、10ミニのドラマーのシューコーのドラミングが遠めに見てもカッコ良くて、「いいドラムがいるバンドだなあ、本番が楽しみだなあ」と思っていました。
そして本番。その番組は他の出演者の演奏もそばでみることができるので、一番前に陣取り10ミニの演奏を見ました。当時10ミニは5人編成で、現ベーシストのタカヒロはまだおらず、その上おーち以外にもう一人ギタリストがいました。
演奏した曲はあの「HEART」で、歌い出しからもう僕の心は彼等に持っていかれてしまいました。司会のブラーザートムさんも、その日いた審査員も絶賛するほど彼等の演奏はかっこ良くて素晴らしかったのです。
おーちと初めて会話したのはその後、何回か後に港北のデパートの屋上で番組収録をした時だったと記憶してます。屋上に上がるエレベーターで偶然10ミニ連中と一緒になり、おーちはでかいギターアンプ、僕はなぜか白いベンチ椅子をかかえていました(笑)。「また何やらかすの?」とおーちに笑顔で言われた覚えがあります。
SWAMPSは番組ではおちゃらけ続けていたので、色モノという扱いを受けていましたが、その背景にある音楽的な部分やSWAMPSバンドの良さもきちんと見抜いてくれていたのは実はおーちでした。そんな感じで仲良くなり、連絡先を交換し、僕が横浜のBBストリートで開催してたイベントに出演してもらったりして、そういった経緯でその後、RMSへの彼の参加につながっていったのでした。
次回は「りぶさん」です。
このコーナーでは皆さんのご意見ご感想をお待ち申し上げております。あの人との出会いは?俺とのことも書いてくれとか何でも結構ですので、みんなの声を聞かせてね。
例えばRMSが一つの芸能界だとして、その中のスマップ的な存在がこの「りぶさん」です。いわゆる湘南の国民的アイドル(笑)。現在は4人編成のバンドとして活動しているが、出会った時は「小川賢二」と「江口優」の二人組で芸名も「Liv」と言いました。彼ら二人は出身は長崎で音楽で一旗挙げようということで6年くらい前に東京での音楽活動を開始しました。
彼等の音楽や世界観は、とにかくハッピーで必ず楽しい気分にさせてくれます。曲も名曲が多く、いつのまにかみんなが覚えて、ライブなどではお客さんの方が大きな声で合唱していたりします。それは音楽だけでなく彼等自身がそういう資質を持っていて、いつでもどこでもたくさんの人に愛され、彼等の周りにはいつも人が集まりゴキゲンな空気が生まれてしまうのです。そんな二人との出会いはどんなだったのでしょう。
彼等と初めて出会ったのは僕が365日毎日ライブをやっている途中の2001年の春先でした。場所は彼等が今もホームグランドとしている下北沢にある「下北沢ロフト」というライブハウスです。
その日の出演は僕とりぶさんの二人だけだったので、彼等とリハーサルも一緒になりました。この時の二人は今から想像もできないほど、なんか無口で、何か「怒っているのかな?」という感じでした。自分のリハーサルが終わって彼等のリハーサルを見ていた時よく覚えているのがけんぢまんのマイクスタンドがまん中の足が突き出ていて、ずっと斜めになっていて、それをけんぢまんがふて腐れた顔で一生懸命まっすぐにしようとしているんだけど、どうも足が出ているのに気付いてないらしく、どうしてもまっすぐにならなくて苦戦している姿でした。その姿がどうにもこうにも面白くて、最初ネタかな?と思っていたんですが店長が助けにくるまで苦戦し続けていたので「なんか、こいつら天然かもしれないなあ」と心の中で笑っていました。
まずこの時点で僕が勘違いしていたのは、彼等を同い年くらいだと思っていたこと、そして彼等のデモテープが「猿飛」という題名だったので、江口を見てグループ名が「Liv」ではなく「猿飛」だと思い込んでぴったりな芸名だなあと思っていたことでした。
その日のライブは僕の集客は悲惨で、一人しかお客さんが来ておらず、しかも彼等二人の出番の後だっのたので、誰もいなくなったら悲しいなあと思いライブの最初のMCで「僕もLivの打ち上げに連れてってください。だから帰らないでライブもよかったら見てってください。」と彼等のお客さんに頼み残ってもらうという卑怯な手段に出ました。するとものすごい数のお客さんが残ってくれました。なんかすごいいい人達だと感動した僕は本気で彼等の打ち上げに参加してしまいました。
その打ち上げの雰囲気もとにかく楽しくて、けんぢまんや江口だけでなく彼等の周りには本当に感じのいい人たちが多いなあと更に感動してしまいました。その中には昨年ツアーでお世話になったコニシ君を初めとして、未だに僕とも交流のある人もいました。
実はその日のライブでは彼等の音楽的な良さというものに、僕は気づいていませんでした。それに気づいたのは数日後彼等に貰ったデモテープを聞いた時でした。打ち上げも楽しかったし、ちょっと聞いてみるかとカーステで聞いていたら、すっかり彼等の世界にはまりました。録音状態も悪く、正直ひどい音源だったのですが、これがなぜか何度でも聞けてしまうのです。
試しに浜野さんにそのテープを聞かせ「こいつらどう思います?」と聞いたところ、「面白い!」と太鼓判を押してくれました。よしそれならば湘南のイベントに呼んでしまえと僕は打ち上げ時に交換したけんぢまんの電話番号に電話をしたのでした。
次回は濱ロック(2月27日開催)でおなじみの「ビト」です。
独自の活動だけでなく、横浜を拠点に「濱ロック」という音楽だけにとどまらない新しいカルチャームーブメントを起こすべく日々邁進するシンガーソングライター。生まれも育ちも北海道であるが、なぜか沖縄を感じさせる彼の世界観。そしてその小さな体からは想像できないほど宇宙的なパワーを放つライブパフォーマンス。同じ日本人とは思えないその独特で不思議な存在感はミュージシャンだけでなく様々な分野のアーティストからもリスペクトされ支持されています。そんな彼との出会いと言えば。。。
彼と初めて出会ったのは横浜石川町にある「FAD」というライブハウスでした。僕自身もその箱に出演していた頃なので、1998年くらいの事ではなかったかと思います。今から思いだしてもその時の衝撃は凄いものでした。その日はライブハウス企画の某大手レコード会社の関係者を数名招いて、「FAD」お勧めのアーティストのライブを見てもらうというものでした。そのイベントに知り合いのバンドが出るということで、僕はお客さんとしてそこの現場にいました。
まあ所謂品評会みたいな企画でそれぞれたった3曲しか演奏できないので、お客さんも入るわけもなく、その日の客席はガラガラでした。そんなガラガラの客席の一番前に異様な気を発してる4人組が並んで座っていました。終始無言で微動だにすることなく他の出演者の演奏を見ている4人組。僕は彼らはいったいなんなんだろう?きっと出演者かな?と非常にそいつらが気になっていました。そうその連中こそがビトが当時結成していたバンド「gaou(ガオウ)」だったのでした。
案の定その連中は何組目かにステージに上がって来ました。セッティングしている間、特に目を引いたのは、やたら小柄でしかも僕と同じもじゃもじゃ頭のだらりとしたT-シャツを着ているボーカルと思しき男でした。ビトです。そのイベントは司会がいてセッティングの間、繋ぎで出て来てそれぞれのアーティストにしょーもない質問をしたりしていましたが、ビトはその司会を無視。何を聞かれても無視(笑)。あげくの果てにはセッティングが終了と同時に「うおおおおおおお」と叫び始めました。手に負えないことを悟った司会者はすごすごと引っ込みそれと同時にgaouの演奏がスタート。
1曲目の「夢心地」を聞いて僕は完全にやられてしまいました。その曲もさることながら、その歌声、パフォーマンス、そして信じられないくらいのエネルギー。「こんな奴がいたのかあああ」とカルチャーショックを受け、他のバンドを応援に行った自分の立場も忘れ、少ないお客さんの中一人で大喜び、おおはしゃぎしてしまいました。
ライブ終了後、すぐビトに駆け寄り「君等すごいね」と僕は言いました。するとビトはステージから僕がはしゃいでる姿が見えたらしく「いやあ、励まされたよ。」と答えました。それが彼と交わした最初の会話でした。
その後僕の主催のイベントにgaouに出てもらったり、僕が彼等のイベントに呼ばれたりしながら交流を続け今に至ります。現在ビトはgaou当時からのメンバー、気のいい兄貴「ホーシュー」と共に二人組ユニットで活動しています。余談ですが北海道にSWAMPSがツアーに行った時はビトの実家にビトのお父さんしかいないのにメンバー全員泊めてもらったりもしました。
考えてみると出会いの衝撃がでかい連中との交流は長く続くような気がします。そしてその衝撃の余波は確実に回りの人々にもいい影響を与えていく気がします。出会いとは生きていく上での重要なエネルギーの一つであることは間違いないんだろうな。
濱ロック万歳!
次回はちょっと可愛く「高橋あや子」ちゃんについて語ってみましょう。
ちょっと、ある事を思い出したので今回は特別に。
最近「男はつらいよ」といういわゆる国民的映画を見ているんだけど、これが面白い!面白いだけではなく、すごく丁寧につくられている映画で、一つ一つの場面に愛情が注がれていて、ストーリーや俳優さんの演技もさることながら構図やセット、そして小物に至るまで気をつかってるのが分かります。こんな素晴らしい映画をなんで今まで見なかったのかと後悔しました。この際なので全48作全部見てやろうかと考えています。
フーテンの寅さんの生き方に共感しながら泣いたり笑ったりしていてふと、ある事を思い出しました。それは僕がこういう音楽を中心としたきっかけにもなった話です。今から遡ること9年前、1995年に僕はまだ銀座にある商社でサラリーマンをしてた頃。その時、ニッポン放送の日曜の夕方に泉谷しげる氏のラジオ番組が放送されていて、休みの日それを偶然聞いていた時、その番組内でオーディションのコーナーがあることを知りました。実はその日にそのオーディションに出演していたのが今でも交流のある「うすいまさと」でした。
ニッポン放送は当時有楽町にあり、自分の会社から近かったこともあり場所を知っていたので、翌週オーディション出演者を決定するそのまたオーディションを直接ニッポン放送まで受けにいきました。
そこでデモ演奏の審査があったのですが、応対してくれたのが、Tさんという当時の僕ぐらいの年頃のADの方でした。その人が僕の歌を薦めてくれ、晴れて番組出演にまでこぎつけ、グランプリ大会まで進んでしまったわけですが(グランプリ大会では惨敗)、実はそのTさんは凄い人の息子さんだったのです。
数年後、寅さんこと渥美清さんが亡くなり、その御葬式の模様がテレビで放送されているのを家で見ていました。その時「あっ!」と思いました。寅さんの遺影を持って挨拶している人、何か見たことある人だと思ったら、Tさんだったのです。実はTさんこそが渥美清さんの実の息子さんだったのです。
僕はそのニッポン放送のオーディション後に本格的に音楽の道を志すわけですが、もしあの時、Tさんが僕を薦めてくれなければ今の僕はないかもしれません。そのくらい重要なきっかけを作ってくれた人が寅さんの息子さんだったのです。
たぶんTさんは出世されて、今頃凄い偉い立場になっているかもしれませんが、いつかもしお話できる時が来たら、感謝と共に「僕の生き方もおかげさまですっかり寅さんみたくなってしまいましたよ。」と笑って話せればいいなあと思います。
例えば、野球で言う新庄、寅屋でいう寅さんのように、その人が来ると場の雰囲気がパっと明るくなる、そんなオーラを生まれながらに持っている人がいます。RMSではあやちゃんこと高橋あや子がそんな存在だと僕は思っています。こういうタイプの人間に共通している印象は非常にピュアな感じがするということです。それだけに傷つきやすかったり、繊細だったりするので、よく隅っこで泣いているあやちゃんも見かけたりします。
彼女の歌はどちらかと言うとその繊細な部分が表によく出ていると思います。優しいけどちょっと痛い感じがするそんな世界観が彼女の作品の持ち味のような気がするのです。でも時々けんぢまんなんかと繰り広げる明るい馬鹿キャラも僕は好きで、それも彼女の魅力の一つに違いないと思います。さて、そんな彼女との出会いですが。。。
あやちゃんとの出会いも結構印象深くて、鮮明に記憶にあるのですが、あれは365日毎日ライブをやっている途中、RMSというものが口コミで広がりはじめたそんな時期、おそらく2001年の初夏くらいだったと思います。僕と浜野さんとまさやさんで初めて藤沢にあるサウンドマーケットというお店で3人編成SWAMPSでライブをやった時のこと。その日は誰が誰を呼んだのかわからないくらい、たくさんのお客さんが来てくれて、僕の初めて会う人もたくさんいました。
僕が歌ってる真正面の一番後ろの席に若い二人組の女の子が座っていて、じーっと僕らのライブを見ているのでライブ中「あの娘たちはいったいだれだろう?」と不思議に思っていました。その一人がそう高橋あや子だったのです。ライブ後声をかけると、たぶん緊張していたのか非常に挙動不振でいったい何を言ってるのかわからなかった覚えがあります(笑)。
その後朝日町パラダイスの「3F」に飛び入りに来るようになり、一挙に頭角を表すようになるのですが、そんなあやちゃんも今となっては、どうしようもない僕の相談に乗ってくれたり、逆に僕がお世話になってる状態になってしまいました。
現在は保母さんをしながらミュージシャン活動を並行して行っていますが、きっといいスタンスで音楽活動が続けていける資質を持った娘だと思うので、これからも彼女の活動をだめな兄貴分として見守っていきたいと思っています。
先日2004年10月31日(日)に藤沢市民会館大ホールで開催された「湘南藤沢まちかど音楽祭」ファイナルステージが無事終了しました。グランプリは「鈴木美海」、準グランプリは我らが「10ミニ」、審査員特別賞にこれも我らが「有谷孔司」、そして女性会賞にいそっちこと「磯裕子」が選ばれました。
最初のデモテープ審査の段階で応募が全国から115組あり、そしてそれが50組に絞られ8商店街で開催されたセカンドステージで8組になりその8組で決勝は争われました。そして最終的に賞を獲得したアーティストは偶然にも4組ともこの湘南地区で日頃地道にライブ活動してる人たちばかりでした。
僕が審査員にまざっていたからだと誤解されそうな結果ですが(笑)、僕はセカンドステージの審査はノータッチだし、ファイナルも大先生である萩原健太氏が審査委員長として最終的な決定を下しているので非常に公正な審査が行われた結果が偶然こうだったわけです。
僕が思うに、やはりファイナルで勝った連中は、この街と人々をよく理解した上でステージに立っていたというのが勝因ではないかと思うのです。それがこの街にあふれるエネルギーと共鳴し暖かい人々の心に届く音楽を無意識に奏でる結果になったのではないでしょうか?
ただ間違いなく言えるのはこの日の出場者は全員本当に素晴らしい演奏をしてくれたということです。恥ずかしい話ですが次から次へと繰り広げられる魂のこもった演奏に感動して、おかげで泣きながら審査するはめになってしまいました(苦笑)。だから余計に差がつけられるわけもなく、湘南自体の空気を掴んだもの勝ちという結果になったのではないかと思うのです。
まあ、このイベントに立ち上げから係わらせて頂いた僕的な考えを言わせてもらえれば勝ち負けなんてものはさほど重要ではなく今までストリートやら飲み屋さんやらで歌ってたまだ日の目を見ない連中があんな大きな会場であんな立派な音響とステージで、しかもあんなにたくさんのお客さん達の前で歌える場がこの湘南藤沢に出現したことが素晴らしいことで大切なことなのではないかと思います。
しかもこのイベント、運営スタッフが何とほとんど、市役所の方々、商工会議所の方々、商店街の人たちなどプロのイベンター抜きのほんとうに街の人たちだけでなりたっているのです。音楽イベントに関して素人な人達の集まりなだけに試行錯誤をくり返し、恐らくミュージシャンや、その関係者の方々に対して至らない点も数多くあったと思います、でもだからこそ、他にはない、物凄い思いやりあふれる暖かい雰囲気の音楽祭が実現できたと思うのです。
この「湘南藤沢まちかど音楽祭」は日本の音楽界にとっても非常に貴重な財産となりうるイベントだと思います。人と人とが損得抜きで音楽を通してこれだけ気持ちのこもった大きなことができるんだという一つの証明なのではないでしょうか。今後もこのイベントが来年も再来年もずっと続いていくことを心から願っています。
最後に、このイベント開催へのきっかけ作った琢磨啓子さん、琢磨仁さん、そして藤沢市役所経済部の金井部長、藤沢駅北口商店街連合会の皆さん、に心より感謝したいと思います。そして同じくこのイベントに係わった藤沢の街の方々、全国から集まったミュージシャンにも感謝します。
こんな素敵なイベントをみなさんと実現することができて僕は本当に幸せです。これからも湘南の街と人を愛する気持ちを大切にみなさんと歩んでいけたらいいなあと思います。これからもよろしくお願い致します。
湘南藤沢まちかど音楽祭実行委員
ファイナルステージ審査員 はっと。
2004年11月1日。